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勇退選手インタビュー 廣瀬七海『不器用で単純な私を”たくさんの出会い”がここまで連れてきてくれました。』

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清々しいほどまっすぐに、いかなる時も攻める。
それが廣瀬七海の持ち味だった。時に相手のブロックへ阻まれ、屈することはあっても、また攻める。「決めてくれ!」とボールが託されるなら、何度でも。
そのまっすぐさは、見る人たちに多くの勇気を与えた。一度ぐらい失敗したってなんだ、また次、やり返せばいいんだ。得点をもぎ取った後に見せる笑顔で、同じように「頑張ろう」と力を与えられた。
そんな彼女がユニフォームを脱ぎ、コートを去る。引退を決めた理由、貫いたプレースタイル、そして応援してくれた人たちへのラストメッセージ――。
レッドロケッツで6シーズン、まだできるのではないか、と惜しまれながらも「すべてやりきった」と笑顔で、新天地へと歩み出す廣瀬が最後に語った、熱い思いを届けたい。
 

 
――引退を決めた時期、経緯を聞かせて下さい
2019年に負った左膝の軟骨損傷膝が1つのきっかけでした。フェイントボールをレシーブしようとコートに膝をついた時に受傷して、直後は膝も伸ばせないし、歩くこともできなかった。手術できるものでもなかったので、いつ痛みが消えるのか。治るのか。先が見えなくて「もう動けないかもしれない」と思った時期もありました。しかもその数か月後に新型コロナウイルスの蔓延で緊急事態宣言が出て、体育館にも行けなくなってしまった。トレーナーさんにみてもらいながらリハビリを進めてきたのですが、それもできず、与えられたメニューを自分で取り組んでいましたが、本当によくなっているのか、不安しかありませんでした。4~5か月経って、やっと動けるようになっても、ガチガチにテーピングをしないと着地した時に膝が崩れてしまうのではないかと怖さがあったし、一度痛い思いをしていたので、「またあの痛みがやってくるのではないか」と恐怖心のほうが大きかった。ケガをしてからずっと、自分の身体と向き合うのが大変でした。
 

 
――コートに立っている廣瀬選手が、そんな恐怖や怖さを抱えているなど感じませんでした。試合中や練習中、どんな影響がありましたか?
ネット際は常に怖かったです。ジャンプをして着地することもそうですが、相手との接触もあるのですごく怖かった。レシーブでケガをしていたので、レシーブで飛び込むのも怖さが消えませんでした。でも、それ以上に必死でしたね。練習も試合も、まず動けるようにコンディション管理も含め、やりすぎるまでやらないと自分が後悔すると思っていたし、準備が甘かったことでケガをしてしまうのは悔しかったので、試合前もストレッチはこの順番、何分前になったらトレーニングコーチを呼んで、とガチガチのルーティーンにはめこんでいました。練習後も電気治療をして、ストレッチも念入りに、他に痛みが出ないように。またケガをしたらもう次は無理だと思っていたので、痛みはあってもいいパフォーマンスを出せるように、1試合1試合に自分のベストをどう持って行くか。“やらないと不安”な自分が疲れるんです。でもやらないと動けない。この2シーズンは本当に苦しかったです。
 

 
――改めて、レッドロケッツでの6シーズンを振り返って。印象深いシーズン、試合、出来事は?
1年目は必死すぎてあんまり覚えていないです(笑)。同期が1人で大変だったのもありますが、何よりも先輩方がすごすぎて、追いつきたい一心でついていこうとするけれど、ついていけない。リーグ優勝したシーズンだったのですが、自分自身は何もできず悔しさしかありませんでした。2年目のサマーリーグで試合に出始めた頃から、少しずつ先輩方と話せるようになって、ターニングポイントは3年目のアジアクラブ選手権です。山口かなめさんと同じ部屋で、プレーはもちろん、いろいろなことを指導してもらって、自分のバレーへの熱量や試合に向けた準備、1つギアが上がったのがその時でした。1、2年目はとにかく「フレッシュに頑張ります」しかなかったのですが、3年目になってチームのために自分は何ができて、何をすべきか考えたり、周りの先輩方と話すことでスイッチが入った。スタートで出してもらえるようになったのも3年目のシーズンからだったので、大きくマインドが変わった時期でした。
 

 
――嬉しかった、悔しかった、印象的な試合はありますか?
たくさんのことがありますが、まず悔しかったのはアジアクラブ選手権の決勝、フルセットで負けたこと。それから去年のVリーグセミファイナルのJT戦です。特にJT戦は勝てるチャンスがあった中、5セット目もリードした状況から逆転で負けてしまった。しかも私は5セット目に1本も決めることができなくて、あそこで私が何本か決めることができていたら勝っていた、と思うと本当に悔しかった。自分が入って打ち負けた、という思いしかありませんでした。
――嬉しかったのは?
一番はこの(2022年)黒鷲旗、準々決勝の上尾戦です。トーナメントだったので、負けたら終わり。でもみんなの「まだ辞めさせない」という思いが伝わってきて、本当に嬉しかった。正直に言うと、試合中も泣きそうでした。でもまだ泣けない、と思って必死で我慢しました。上尾に勝って、準決勝のPFU戦で負けてしまいましたが、最後は全部、私にボールを集めてくれた。そこで決めきれなかった、と悔しさもありましたが、みんなの思いが込められすぎていて、感謝しかなかったです。終わってすぐに(井上)琴絵さんが「頑張ったね、お疲れさま」と言ってくれて、本当に嬉しかった。でも、最後にみんなで写真撮影するまでは絶対に泣かないと決めていたんです。最後の最後だから、いい顔でみんなと撮りたいじゃないですか。それなのに、写真撮影をする瞬間、隣でミー(山内美咲)さんが「ウミ、今までありがとうね」って言うから、それでもう涙がバーッと出てしまって、結局ぐちゃぐちゃのひどい顔で映っているんです(笑)。あの写真を見るたびに、キャプテンのことを思い出しますね(笑)。
 

 
――ご自身で振り返り自分は、どんな選手、どんなバレーボール人生でしたか?
器用じゃないです。しかも攻めることしかできない、単純な選手でした。今この状況だからこう決めに行く、ではなく、常にシンプル。みんながつないでくれたから、私は決めに行くんだ、と一生懸命打って、褒められると嬉しいし怒られると自信をなくす。気分の浮き沈みも含めて単純な選手でした。実は膝の痛みを抑えるために痛み止めを飲んでいたんですが、私はジェネリック医薬品が効かないんです。何も変わらない、ちゃんとした薬なのに「違う」って思うから、効かない。逆に言えば「これはすごく効く薬だよ」ってラムネを渡されていたら、「痛くない」って思っただろうな。それぐらい単純な選手でした。そんな私が、人やタイミング、たくさんの出会いに恵まれてここまで来られた。高校も最初は旭川実業ではないところに行こうとしていましたが、旭川実業に行っていろいろな出会いに恵まれて、ここまで連れてきていただけた。人との出会いに恵まれたバレーボール人生でした。
 

 
――廣瀬選手から、応援して下さった多くの方々に向け、ラストメッセージをお願いします
ファンの皆さん、私に関わってくださった方々、応援してくれる皆さんの声援で背中を押してもらって、ここまでバレーを続けてくることができました。チームのホームページやSNSを通して「引退します」と発表した時も、寄せられた多くのコメントを見て「黒鷲旗も頑張ろう」という気持ちになれました。これまでもたくさんのコメントや、実際に会った時の「応援しているよ」の一言で、こんなにたくさんの方々に応援してもらっているんだ、と嬉しく思うと共に、背筋が伸びるような。より気合を入れて臨まなければ、といつも思わされるほど、皆さんの応援が力でした。本当にありがとうございました。私は引退しますが、これからもレッドロケッツの応援、よろしくお願いします。ありがとうございました。

 

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